定説に揺らぎがあることすら知らなんだ
悔しいというのは、ゴッホの絵のさらなる変遷を見れたかもと想像してしまったのだ。
30年ぐらい前、「黄色い畑に不気味に群れ飛ぶカラスが描かれた作品を絶筆に、拳銃自殺を図った傷が原因で亡くなった。」というようなことを、ゴッホの画集の解説か何かで読んだ。このことはずっと作品の見方に影響を与えてきたと思う。
自殺ではなかったにしろ、ゴッホ自身はこの最期を受け入れていた?
全力を尽くしてきた画行に悔いはなく、今描くべきものを今描き、明日生きていれば、明日、その目に映るものを描く。明日がなければそれで良しということか。
ただ1人で野を歩く、全身が目になった感、でもクラクラ
心に響くものを探して歩く歩く。とても清々しく眩しい場面がたくさん。気持ちよくみていたら、画面の揺れに酔いそうになった。こちら三半規管が弱いのだ。色調が変わったり不思議な感覚。
絵にタイトルつける?つけない?
画面の中でゴッホタッチの絵が実際に描かれていく。まだ濡れている場所にこんもり絵具をのせた筆を走らせるときのヌリヌラした感触を追体験。下絵なしにぐいぐい描いていくゴッホは、自分の絵にタイトルをつけない気がする。目で見て感じるものが全て。描く自分もそう。絵を見る人にもそうであれと。でも弟テオへ送った手紙が期せずして絵の解説になっているか。
対してゴーギャンはタイトルをしっかり考える派。確かものすごく長いタイトルがあったはず「我々はどこにきてどこにいくのか・・・」みたいな。
もちろん視覚からの情報に動かされるけれど、作品には何を描くかの構想があり下絵があり、コントロールした絵を生み出す。絵に与えるタイトルは見る人へのヒント。画家のスタイルもいろいろなのだな。
ゴーギャンの本も、確か30年くらい前に読んだ。タヒチに移った彼が、庭を歩く素晴らしく立派な雄鶏を前に、食べたいが食えば美しさを愛でることができなくなってしまう・・・と葛藤する述懐のところで、なんだか親近感を覚えた。
でも怪しい。記憶に齟齬があるかもしれないし、新しい事実が発見されてゴーギャン観も刷新されているかもしれない。
デフォーのキリストを連想
神父とキリストのことを話すシーンがある。スコセッシ監督の「最後の誘惑」でウイリアム・デフォーはキリストを演じていた。うろ覚えだが、デビット・ボウイ演じるピラトと、キリストが、やっぱり回廊のある中庭で静かに言葉を交わしていたような・・・。また見てみたくなったぞ。
そしてこの文を書いている傍で「アクアマン」が放送されている。髪をキュッと結ったアトランティス人のデフォーがCGで若返ってる。映画って面白いのだ。
2018 At Eternity's Gate イギリス・フランス・アメリカ
監督:ジュリアン・シュナーベル